系列が異なる筋肉の付着部や組成だけでなく,それらの起始部や役割についても提示すべきであるとした.筋組織を細紐を用いて制作することで,主働筋と拮抗筋の役割を確認した.また彼は横隔膜,胸部の筋肉,喉頭筋,外眼筋(眼球を動かす筋肉),括約筋の正確な位置を同定した.さらに心臓は筋肉で成り立っていることを初めて説き,血液の拍出は心臓の収縮でなされ,拍出される太い管には心室の腔からの逆流を止める弁が備わっていることを示した.またペニスの勃起は筋肉ではなく血液の充満によるものであって,空気の圧縮ではないと論証した.彼はカエルの観察から脊髄が突発的な動きの始動に欠かせないことをつきとめた.一方,彼の実験技術にも限界があり,神経と腱の働きについてはガレノスと同じ解釈に逃れるほかなかった.神経については筋肉に覆われた体内に行きわたりながら分散し,やがて腱の形状で再び形をなすとした.神経-腱を一体となって同じ機能をもつものと捉え“nervi”という名称で呼んでいた. 彼の仕事は多岐にわたるだけではなく,その着想も驚くべきものである.レオナルドは成人男性に留まらず母親の胎内にいる胎児も描き,人生の終末期に入るような老人までも表現した.彼が描くのは人間に留まらなかった.人間が手足や筋肉の位置によって,他の動物種と似ていたり違ったりするのはどうしてなのかを研究していた.彼はこの均衡を崩すもの,血管を詰まらせうるもの,感覚を変えうるもの,そういったすべてを見つめた. ルネサンス時代の別の大家はよりヨーロッパ的な人生を送った.アンドレアス・ヴェサリウスは1514年にブリュッセルに生まれ,パリで医学を修めたが,より明晰で自由な雰囲気を求めて博士号の学位論文をパドヴァ大学で続けることを選んだ.レオナルドとアンドレアスに直接の面識はなかったが,アンドレアスがレオナルドの解剖学的業績の影響を受けなかったとは考えにくい.いずれにせよ,彼はパドヴァ大学で外科学教授に任命されるとすぐに学生の前で公開解剖を始めた.いくつかの処刑は彼の公開解剖の時間に合わせて執行されたようだ.標本は体表から深層に至る層ごとに図で記録された.ティツィアーノ自身の絵か,あるいは彼の弟子ジャン・ステファン・ヴァン・カルカル(Steven Van Calcar)の絵か,デッサンの描かれた300の画板を元に,バーゼルの有名な印刷アトリエに作成を依頼した本『ファブリカ』が間もなく完成した.1543年に出版された『ファブリカ』の成功は一世を風靡した.この本は何度も版を重ね,翻訳され,また偽の本も出回った.この概論によってヒトの解剖はガレノス学派時代の(動物解剖に囚われた)暗闇から脱したのだ.解剖は科学,観察科学となり,もはや推論と想像の産物ではなくなった.実験科学はまだ不完全な状態にあったとしても,われわれの死にゆく運命を彷彿とさせる寓話的表現の範疇から逃れられなかったとしても,この解剖がヒトとその性質5)についての新しい捉え方を提示したのだ. 新たな未知なる科学への探求においては,新たな知識の普及は常に瞬く間になされるものであるが,同時にまた時の権力から,信じ難く扱われたり批判を受けたりするものである.しかし実際には,若い後継者6)が育つ土壌を作ることは容易であった.教会は懸念したり警戒したり,ある点では訴え,また別の面では寛容に扱ったり,パドヴァに見られたように知らないふりもした.医学部が最初の劇場型解剖室7)を開いたパドヴァ大学では解剖中に折の悪い訪問者がきた際には,迅速に解剖されている遺体を密かに移動させる妙策も講じられていた.芸術家,画家,彫刻家たちは,ここでの解剖見学を通して人体の形を理解し,生命と死の神秘性の表現力を高めていった.彼らの多くは,解剖中や講義中に人体の形を描いていたという.そうこうするうちに,新たな流行として人々は見学に殺到するようになった.怖いもの見たさと,半ば禁断の第1章 「身」から筋肉へ 7
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