空気の中に身を置いてみたい人々であった.パリではこの新たなる科学は医学部ではなされなかったので,人々は王立薬用植物園(現在のパリ植物園)のピエール・ディオニス(Pierre Dionis)やジョセフ・リシャール・デュヴェルネ(Joseph-Richard Duverney)の周りに集まってきたのだった.必要な遺体はどのように集められたのか? それらは密かな方法で調達する必要があった.墓地,共同墓穴,絞首台を訪れ,死刑執行人,警備員,警官らを買収したのである.隠れて違法に壁を乗り越えていたのだ.クラマール墓地,サンテュスターシュ墓地,のちにはロワイヤル通りの墓地などに夜に遺体収集の人たちが集っていた8). 17世紀の終わりには,解剖学者の意のままに解剖結果を永久保存し,教育に用いることができるようにする,あるいは大衆の気晴らしとして満足させるためには,図版だけでは不十分になった.そこで葬式で使われる蝋細工の肖像のレリーフの技法が用いられ,立体感のある多色使いの人体模形が作製されるようになった.シチリア出身の神父ガエタノ・ジュリオ・ズンモ(またはズンボ)[Gaetano Giulio Zummo(Zumbo)]は変わり者であったが,彼の作品の完成度の高さから瞬く間に有名になった.ボローニャからジェノバまで,マルセイユからパリまで,彼は解剖した頭部を見せて回った9).そこでまた複製し合い,明らかに解剖をするのが難しかったと思われる標本については,どの標本が誰の作品かについて言い争いが起きた.人々は死体解剖の上演を大々的に行った.材料を安く入手できる場所に近づくために,ガレー船の船長の所にいそいそと通った.最高の作品はフィレンツェやパリの王立コレクション入りを果たした. 解剖標本の技術はさらに改良されていった.動脈,静脈,リンパ管への注入技術がオランダからもたらされた.細心の注意を払い,「身」を固定するためのいくつかの新しい手法を用いることで,注入された脈管系統だけをはっきりと描出できるようにした素晴らしい標本を作り出すことに成功した.18世紀後半に入って,いくつかの高い目標が達成された.たとえば,アルフォールに新設された獣医学校の校長となったフラゴナール(画家のフラゴナールの従兄弟)の作品がそうである.彼は走る馬とそれにまたがる騎士の皮剥ぎ標本を作成した10). このような仕事の急増,技術の急成長により,そこには際どい用いられ方や悪徳な商売もあったにせよ,人体解剖学は進歩を遂げた(図1).ただ,蝋,石膏や木工で制作された人体部分の標本を支持する者と,人体解剖のみを盲信する者との間に緊張が生まれ,医学校と外科医との間にも不毛な論争が起きた.そのような中で,解剖学教育は半ば非合法の立場で,私的で有料の講義として遺体の調達がしやすい準備が整った老朽化した家で行われていた.ドソー(Pierre Desault)やデボア・ドゥ・ロシュフォール(Desbois de Rochfort)の時代である. 解剖学の対象はやがて健康体の描写枠を超える.美しいとはとても言えないという理由で,祭りの見世物として大勢の人々を驚かせたり,あるいは彼らの診察室で愛好家たちを虜にするために,怪物のような姿で生まれた子どもの標本(結合双生児,頭部のない児など)を見せた.もっと単純に言えば,医者の卵に骨や腸管,心臓,肺,脳の病巣を見せるためにこれらの標本を用いた.こうして病理学となった人体解剖学は,パドヴァ大学のモルガーニ(Giovanni Battista Morgagni)やパリ大学のビシャ(Xavier Bichat)11)のような偉大な師の力を得て,イタリアやフランスで急速に発達した. この時期にヒトの解剖学の構築を取り巻いていた秘密やタブーがはるか遠くになった今日でさえも,このような標本を前に,われわれが未だに耐え難い不快感を抱くのはなぜだろうか? それは解剖に従事する人がしばしばもつとされる独特の嗜好によって引き立てられる標本の病8 筋学を築き上げた人々 ~L’HOMME DE CHAIR~
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